最後に残るのは自分の肢体と貯金残高

自分の心の機微をそのままに

前頭葉を制する者は世界を制す

わたしはこれからの人生をとてもつまらなくするようなことに気づいてしまった。
 
それは、この世の全ては前頭葉のせいである。ということだ。
 
わたしは、衝動的に行動したり、夢中になるとついその事にしか目が向かなくなったり、
満腹になっているはずなのに、食べるのが止まらなくなったりする時がある。
 
眠りが浅かった朝は、頭の前部が委縮したような感じがして、両足の筋がピンと張ったような感じがする。また、この足の張りは、退勤後も同様で、仕事疲れのせいなのか、脳みそが委縮したような感覚がして、あまり頭が回らなくなってしまう。
 
また、寝不足の時は前頭葉部分の痺れと目のくまが連動していて、夜ねむくなるときは
前頭葉が気持ちよくなるのと同時にまぶたが重くなる。
 
委縮したような感覚がある場所がいつも前頭葉部分だということに気づき、google検索で
前頭葉 委縮」で調べると、おもしろいくらい様々な記事とワードがひっかかる。
 
前頭葉 ストレス」
前頭葉 精神機能」 
前頭葉 感情」 
前頭葉 障害」   
 
「やっぱりか。」
とそう思った。
 

いくつか記事を見てみると、前頭葉が喜怒哀楽の感情をコントロールしている基幹であると記述がある。
 
つまり、わたしたちはいつも感情を感じるときに、「心で感じる」と表現しているが、
実は本来、全ては前頭葉で始まり、前頭葉で収まっているものであり、前頭葉で物事を察知し、感じたものが、わたしたちの行動を支配しているのである
 
 
脳はわたしたちの体の一部であるのにも関わらず、わたしたちは脳に支配されている側でもあるのだ。
 
 
そのことに気づいた時、わたしたちの体は天体上の中の塵程度の物質でしかなく、
普段、体と体でコミュニケーションを取っているように思えるが、実は前頭葉前頭葉でのやり取りにしか過ぎないのである。
 
 
そう思った時、途端にすべてが馬鹿らしくなり、わたしはこれからの人生がますますつまらなくなってしまうことに気づいてしまったなと感じた。
 
しかし、気づいたことにより、プラス面もある。
 
それは、自分自身がコントロールされる側ではなく、コントロールする側になるために日々訓練をすればいいということである。
 
電車の中で怒っている乗客をみたら、これは前頭葉のせいだと思えばいいし、
職場で嫌なひとがいたら、前頭葉が未発達なんだなと思えばいい。
 
自分自身の感情が抑えられなくなった時は、脳みその図面を眺めたら幾分か気持ちが収まるだろう。
 
わたしのこのロジック、誰か驚嘆し、共感してくれる同志がいないだろうか。

出来ればコンタクト片目生活を続けたい

つい先週の木曜日に角膜炎になった。
目がこんなに痛いと感じることがあるなんて思いもしなかった。
 
目ん玉が針でさされているかのような痛み。
その日の夜中に立ち上がれなくなったときには救急車を呼ぼうかと思ったほど。
 
改めて、普通に目が見えることにありがたみを感じた。
 
左目の腫れがひくまで片目コンタクトなし生活をしなければいけなくなり、
最初は耐えられないと思っていたのだが、これが案外ハマってしまった。
 
視界が半分ぼやけることによって、普段こんなにも体に力が入った状態で生活をしていたのか、
と気付かされた。
 
常に視界はぼやけているし、文字の見間違いをしそうになるけど、自分の視界全体に他人がはいってこないおかげで、周りの目を気にせずに自分のワールドだけで過ごすことができる。
 
今後もたまにはコンタクトを片目だけ外して過ごしたほうがいいのかもしれない。
 

大人だって学校がほしい

たいていの人は義務教育である中学までか、高校、または大学までの約20年ちょっと、
学校に通い、先生に勉学を教えてもらう。
 
そのほとんどは、インプットの時期。
たぶんそれは社会人の場で、アウトプットするためだと思う。
 
しかし、学生だったときに、社会人になってからのアウトプットのために
今必死に勉強するぞ、と思って勉学がいたなんて到底思えない。
 
社会人になって、改めて思うものだ。
 
「ああ、あの時もう少し勉強しておけばよかったなあ。」と。
 
20数年ずっと勉強していたのに、そのあとは生涯インプットの教育なし。
 
あんまりにも極端だなあと思う。
 
しかも学生時代、まともに勉強していなかったら、どうだろう。
あんまりにもすっからかん人間すぎる。
 
大人はどこから学びを得ればいいんだろう?
 
自分で学ぼうとする意志がないかぎり、自分のアップデートがされないなんて怖いなと思った。
 
外身は60歳、でも知能レベルは23歳の大学生のままであることが当たり前に起こりえる。
 
もちろん感情とか人間スキルは磨かれているだろうから、幼稚な知能のままってことはないだろうけど、見識や知識というのは衰えていく一方で、インプットするためのリソースを自分で見つけなければ知能レベル23歳のおばあさんにならざるをえない。
 
 
さて、そしたらどこからインプットしようか、という話になる。
 
学校にはいけないから、身の回りのものから吸収するしかない。
 
本?新聞?映画?ラジオ?テレビ?
(上記以外があったら是非おしえてください、、。)
 
どれもこれも自分の興味がなかったら長続きしないものばかりで、勉強を継続することは難しいことなんだなと改めて感じる。
 
わたしは今さら勉強という堅苦しいものをする気は起きないので、自分の趣味であるラジオやアニメから何か新しい感情を得たり、新しい興味を見つけていきたいと奮起している。
 
自分の趣味から学びを得るという発想も意識をしなければ思いつきもしなかったわけだから、
おばあちゃんになる前にこれに気づけて良かったと思うことにする
 
 
 

21/08/24 昨日の呟き

人間どれだけ賢く生きることができることが勝負だなと思った。

周りや仕事に飲み込まれないように生きたい。

 

今日は前頭葉について気付くことができた。

 

周りにも自分にもコントロールされることなく、自分が前頭葉をコントロールできるようにしたい。

 

省エネで前頭葉をコントロールする。

READING BETWEEN PEOPLE

READING BETWEEN LINES'

「空気を読む」というフレーズを訳すと上記の通りになる。

直訳すると「行間を読む」。

文章と文章の間を読め。
文章そのものの意味だけではなく、文が連なるからこそ生まれる行間にあるものを拾い上げろということである。

しかしこれは「空気を読む」ということばをすべて網羅したことばではないように思える。

このイディオムは、人が発することばに対して空気を読むということを示唆できているとは思うが、人と人とが関わった化学反応から生まれる空気に対して、「空気を読む」ということを指していないように思うからだ。

そうではなくて、わたしは新しいイディオムを定義したい。

READING BETWEEN PEOPLE’

一人の人間の内面から出てくる空気が他人の空気と合わさって生まれる、新しい空気
というのは、七色どころか、無限色だと思う。

その無限色の空気というのは、色だけではなく、重さや大きさが瞬く間に変わるもので、
時に怖くもあり、おもしろいものでもある。

空気を作りだしたり、動かしたり、浄化したり、消したり、わたしたちは操る立場でもあり、操られる立場でもあるため、空気に飲み込まれないように十分に注意したい。

21/08/23 今日の呟き

うーーん、今日はなにも感情がない。

 

感情がない=ストレスがあまりないということなので、良いことであるとも捉えられるけど、

刺激がない日を過ごしてしまったのか、とも捉えられる。

 

でも今日思い立ったことは、

「似て非なるもの」を探そう。

 

なんだか言葉あそびしたくなった日でした。

21/08/22 今日の呟き

今日も今日とて本屋をうろついた。

 

最近エッセイ集のコーナーとBRUTUSダヴィンチが置いてあるコーナーを漁るのにハマっている。

 

雑誌のエッセイページや対談ページを見て、その人のディスコグラフィーを読んで

有名大学や大企業出身ではない人を探す。

 

いた。

「カツセマサヒコ」

 

サラリーマンを経て、独立。

 

この人だ。と思って、彼の著者のコーナーに出向く。

ピックアップされているコーナーにあって、へえ、流行っているんだ。と知る。

 

「明け方の若者たち」

 

主に社会人時代の話と恋人の話が書かれてある。

ぱらぱらと10分程度で完読できた。

 

感想は、

「うーーーーーーーーーん。」

 

言葉のチョイスとかはすてきだし、恋愛模様はとても生々しくて読んでいて面白かったけれども、正直平凡だな、と思った。

 

他にも、エッセイストを知るべく、他のエッセイコーナーを眺めてみる。

 

著者が50歳以上のことが多い。

やはり人生を長く生きた人だからこそ随筆を書くということに至るのか?

 

もしくは、教授だとか、海外在住のWEBクリエイターだとか、わたしには縁もなかったような道に居るひとが出している本が多い。

 

なぜだ。

 

谷底に落ちたような感情を持ったり、人には言いたくないような自分があったりしているからこそ、文章を出したくなるものじゃないのか???

 

だから、決めた。

 

いつか絶対に自分の随筆を出版する。

 

幼い頃は吃音症、高校生の頃に家庭崩壊、社会人になってからはうつ病を経験した私から出てくる文章はおもしろい。

 

曲がっているけど純朴な自分の感性が誰かに共有される日が来るように

生きる。